纏(まとい)とは?

町火消しが組のシンボルとして用いたのが纏です。

纏の歴史

纏はもともと群雄割拠の戦国時代に、戦場で敵味方の目印として用いたもので、的率(まとい)あるいは馬印(うまじるし)と称していました。 江戸時代に入り太平の世が続くと、武家の的率は使われなくなり、これに代わって火消が火災現場で用いる標具となりました。

幕府の財政立て直しに取り組む8代将軍吉宗は、頻発する大火によって大きな打撃を受けていることから、その打開策は急を要しました。そこですぐれた行政家である大岡越前守忠相と協議し、町人による町火消を編成しました。

 

町火消が誕生して間もなくの享保5(1720)年4月、大岡越前守は、町火消に纏を持たせ士気の高揚を図りました。もっとも、このころの纏は纏のぼりといわれた幟形式のもので、馬簾(ばれん〜纏にたれ下げた白く細長い飾り)はなく、火災出場区域や火災現場心得などが書かれていました。

今日見られるような形の纏になったのは、享保151730)年のことで、当時纏の馬簾には、黒い線は入っていませんでした。(ただし、一般の町火消と区別するため、上野寛永寺に火災が起こった際に駆けつける「わ組」と「る組」の馬簾には1本、湯島 聖堂に火災が起こった際に駆けつける「か組」の馬簾には2本の黒線が入っていました)すべての纏の馬簾に、黒い線が入れられるようになったのは、明治5(1872)年に町火消が消防組と改称されたときからです。

 

また纏の標識部を陀志(だし)と 呼んでいますが、これらはそれぞれの組の土地に縁のあるものや、大名の紋所などをデザイン化したものが多く、「い組」に例をとると、芥子(けし)の実に枡 を型取ったものであることから、芥子枡(消します)の纏と呼ばれています。この名は、大岡越前守が付けたものという説もあります。

纏持ち

火災の多かった江戸時代、一度火災が起これば命をかけて町や人々を守った町火消し。中でも纏持ちは屋根に登って纏を振りかざし「ここで火の勢いを食い止めろ!」という目印として活躍しました。

当時は水での消火ではなく建物を壊して消火していました。江戸は長屋が多く、纏持ちは建物の破壊規模を判断する、重要な役割を担っていたのです。町火消しの勇気と粋な姿は江戸の人々には大変頼もしく見えたでしょう。

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